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きゃり~です😻🙂
今日は何の日かな~

山崎の戦いの始まり(1582年) です
1582年6月3日(旧暦)は、まさに「本能寺の変」の直後
信長の死を知った羽柴秀吉が、歴史に残る大逆転劇「山崎の戦い」に向けて動き出した運命の日です。
本能寺の変が起きた時、秀吉は備中(岡山県)で毛利氏と戦っていました
情報の速さ:6月3日の夜、秀吉のもとに信長の訃報が届きます
秀吉は即座に毛利と和睦を結び、翌日には撤退を開始
驚異のスピード:約200kmの距離をわずか10日ほどで移動しました
この「中国大返し」により、光秀が体制を整える前に、圧倒的な軍勢で京都へたどり着くことができたのです
山崎の戦いにおいて、勝敗の鍵を握ったのが天王山(てんのうざん)の占拠でした
地形の重要性:山崎は山と川に挟まれた非常に狭い地形で、ここを抜けないと京都には入れません
その脇にそびえる天王山をどちらが先に取るかで、戦場全体を見渡せるかどうかが決まりました
言葉の由来:現在でもスポーツや勝負事で、勝敗を決める重要な局面を「天王山」と呼ぶのは
この戦いが語源となっています
光秀にとって最大の誤算は、信長の側近や親戚だった大名たちが味方してくれなかったことです
細川幽斎・忠興親子:光秀の親戚(忠興の妻は光秀の娘・細川ガラシャ)でしたが
信長への弔意を表して剃髪し、光秀の誘いを拒否しました
筒井順慶:大和(奈良)の有力大名でしたが
洞ヶ峠(ほらがとうげ)でどちらが勝つか静観したという伝説(「洞ヶ峠を決め込む」の語源)があるほど
光秀は孤立してしまいました
山崎の戦い自体は、兵力差(秀吉軍 約4万 vs 光秀軍 約1.6万)もあり
わずか数時間で秀吉軍の勝利に終わりました
小栗栖(おぐりす)の竹やぶ:敗走した光秀は、自身の城(坂本城)へ逃げる途中
京都市伏見区の小栗栖で落ち武者狩りの農民に襲われ、最期を遂げたとされています
「三日天下」:実際には本能寺の変から11〜12日ほどありましたが、あまりに短い栄華だったため
そう呼ばれるようになりました
歴史の裏話:秀吉の「演出力」 秀吉は山崎の戦いの際、信長の三男・織田信孝を総大将に立て
「自分はあくまで信長の仇討ちを支える家臣である」という大義名分を掲げました
この見事な政治的演出が、多くの味方を引き寄せる決定打となったのです
「本能寺の変」という破壊の後に、秀吉という新しい秩序が爆速で組み上がっていく
その第一歩がこの日だったと言えますね~🧐🧐
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