
群馬県館林市の歴史を紹介します。
館林市域に人々が住み始めたのは、少なくとも約一万年以上も前であるとされ、縄文時代には既に集落を作って生活をしていたと思われ、市内各所から当時使用されていたであろう縄文土器や石器類が出土し、住居跡等も発見されている
また、古墳時代には代表的な遺跡として山王山古墳などがあり、50年ほど前には市内に少なくとも67基の古墳があったとされている。
館林市の地名の由来として、室町時代に「館林城」が築城されたこと、「館(たて)=館(やかた、武将の居館)」が「林」の中にあったことから「館林」と呼ばれるようになったとされる説が有力。
また、古い文書(1471年の書状)には「立林」と記載されており、「館」が「立」と書き換えられたか、かつては「立林」という地名だった可能性がある。
鎌倉時代、佐貫庄と呼ばれた邑楽地域を鎌倉幕府の御家人である佐貫氏一族が支配し、勢力を持っていたが、室町時代になると、有力庶子家の舞木氏が力を持ち、その後赤井氏が勢力を張ることになる。
室町時代に赤井文六らにより最初の館林城が築かれ、周辺の政治、軍事の中心地となり館林城を巡り大きな戦乱が巻き起こる。
更に、越後の戦国大名上杉勢により館林城は攻められ、足利長尾氏が城主となり、次いで北条市、榊原氏へ領主が変わり、榊原氏所領の時代に10万石の館林藩が成立する。
江戸時代になると、徳川四天王の一人榊原康政によって館林城城下町が整備される。
その後、城主は榊原氏から松平(大給)氏、徳川氏、松平(越智)氏、太田氏、井上氏、そして最後の城主秋元氏と変わり、いずれも徳川家との関わりの深い大名家が館林を治めてきた。
特に5代将軍徳川綱吉が将軍になる前の20年間、館林城主となっていたことは、この館林が江戸幕府にとって重要な拠点であったといえる。
綱吉の在任中、館林は藩政の中心として栄え人口も増加する。
明治4年の廃藩置県により、館林藩は邑楽郡一円を区域とする館林県となるが、間もなく栃木県に編入し、明治年には群馬県に編入され、館林町は邑楽郡に属することになった。
明治40年には東武鉄道が開通し、製糸業、織物業を繫栄させ、女性労働者が多く働く工場が立ち並び、経済が大きく発展し群馬県東部の産業を支え、昭和初期には館林は文化・商業の中心地として成長した。
大正、昭和の暗い世相を乗り越え、館林町は昭和29年4月1日、館林町、郷谷村、大島村、赤羽村、六郷村、三野谷村、多々良村、渡良瀬村の1町7カ村の合併により、館林市をして新たな船出を迎える。
1970年以降には、「つつじが岡公園」「茂林寺」など、観光資源を生かしたまちづくりが進む。地域の伝承として、分服茶釜の舞台である茂林寺が観光スポットをして人気である。
館林市は日本でも有数の暑い町としても知られ毎年夏に全国ニュースに登場することもある。
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