元亀元年6月28日(1570年7月30日)、現在の滋賀県長浜市を流れる姉川の河原で、歴史を揺るがす大血戦が行われました。のちに天下を分かつこととなる「姉川の合戦(姉川の戦い)」です。
織田信長・徳川家康の連合軍と、浅井長政・朝倉景健の連合軍が激突したこの戦い。実は「天下三英傑(信長・家康・秀吉)が揃って命を落としかけた」という、日本史上屈指の危機的状況だったことをご存じでしょうか?
今回は、歴史の命運を分けたこの激闘を分かりやすくご紹介します!
もともと信長と浅井長政は同盟関係にありましたが、信長が浅井の旧友である朝倉氏を攻めたことで長政が離反。挟撃された信長は命からがら京へ逃げ帰ります(金ヶ崎の退き口)。
体制を立て直した信長は、盟友・徳川家康とともに反撃を開始。姉川を挟んで両軍合せて3万人以上が激突する大合戦が幕を開けました。
合戦の序盤、猛攻を仕掛けたのは浅井・朝倉軍でした。戦場は文字通り「三英傑が揃って死にかけた」壮絶な泥沼へと化します。
もしここで誰か一人でも討たれていたら、その後の安土桃山時代も江戸幕府も存在しなかったかもしれない、まさに「日本の歴史が終わりかけた場所」だったのです。
この絶対絶命の窮地を救ったのが、徳川家康率いる三河武士たちの恐ろしいまでの勇猛さでした。
なかでも輝きを放ったのが、当時23歳だった本多忠勝(ほんだただかつ)です。
忠勝の異次元の活躍と、榊原康政らによる見事な側面攻撃が合わさり、徳川軍は朝倉軍を撃破。そのまま浅井軍の側面に回り込んだことで、絶望的な戦況を一気に逆転勝利へと導いたのです。
後に信長は、忠勝の戦いぶりを「花実兼備(華やかさと実力を兼ね備えた武将)」と大絶賛しました。
姉川の合戦で敗れた浅井・朝倉両家は大きく勢力を減退させ、3年後の1573年に滅亡へと向かいます。
現在、姉川の周辺は静かな田園風景が広がっていますが、現地には「血原」「血川」といった当時の惨状を物語る地名や碑が残されています。
信長、秀吉、そして家康と忠勝。歴史の主役たちが全員泥まみれになり、文字通り命を賭して日本の未来を繋いだ姉川の地。歴史の「もしも」に思いを馳せながら訪れてみてはいかがでしょうか。

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