こんにちは!
唐突ですが、みなさんは関ケ原の戦いという戦をご存知でしょうか?
誰もが一度は聞いたことのある歴史の一片だと思います。
場所は美濃国関ヶ原。(1600年)慶長5年9月15日。
現在の岐阜県関ヶ原にて、石田三成対徳川家康の天下分け目の大戦。

西軍を率いるは、石田三成
豊臣政権の中枢を担った、公正無私な性格と信義を重んじる義に熱い人柄でした。
秀吉の亡き後、秀吉への忠義を果たすため、徳川家康に対抗して西軍を組織しました。
「一人が万民のために、万民は一人のために尽くすこと によって天下が幸福(吉)になる」という意味です。
これはラグビーの「One for all, all for one」や、会社における「一人が全社員のため、全社員がその一人のため」と通じる、普遍的な理想として現代でも通用すると考えられています。
こうしてみると、石田三成という人物がいかに義に熱く、忠義に誠実でだったのかよくわかりますね(`・ω・´)✨
そんな三成が率いる西軍の戦力となったのは、宇喜多秀家、大谷吉継、毛利輝元、小早川秀秋、島津義弘、などの名だたる武将が名をあげました。
三成が陣を張ったのは、関ヶ原の街並みを一望できる笹尾山。約八万の陣営が織りなす鶴翼の陣を高みから見下ろした三成は勝利を確信していたことでしょう。
そして、石田三成と相対するは、徳川家康!

東軍を率いるは、徳川家康
当初は今川家の配下だったが、桶狭間の戦いで今川義元が討死後、家康に改諱し独立。その後、織田信長と清州同盟を結び、徳川に改姓。
信長亡き後、信長政権で勢力を伸長した豊臣秀吉とは、小牧・長久手の戦いで対峙するが後に臣従し、豊臣政権下で最大の領地を得る。秀吉亡き後、新しい時代を築くため東軍を組織。
厭離穢土欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)
こちらは徳川家康が旗印として掲げた理念です。「苦悩に満ちたこの世を嫌い離れ、平和な極楽浄土を心から願う」という意味です。
この旗は、家康の先祖である松平親忠の代から掲げられていたもので、家康もこれを引き継ぎ、戦乱の世を終わらせ、徳川幕府を開く上で心の支えとなりました。
今でいう、世界平和のような理念を家康は願っていたのですね。毒を以て毒を制す。西軍を討つことで戦のない世を築こうとし、それを見事達成させた徳川家康はやはりそれだけの人物だったのでしょう(´_ゝ`)✨
そんな家康が率いる東軍は、本田忠勝、井伊直政、福島正則、細川忠興、黒田長政、伊達政宗など一度は聞いたことがある武将が名を上げました。
家康が陣を張ったのは、関ケ原の入り口付近にある桃配り山。魚鱗の陣の中央後方側から西軍の動きをじっと見据えていました。
天下分け目の大一番を制したのは、東軍率いる徳川家康でした。
負けを見越した三成はやむを得ず敗走。
ですが、どうして三成率いる西軍が負けたのかを知っている人は少ないのではないでしょうか?
―——笹尾山で勝ちを確信していた三成を襲った悲劇の真実
圧倒的有利の戦況だった西軍に起こった悲劇。
それは、味方であったはずの小早川の裏切りにありました。
東軍の猛攻を正面から対峙していた大谷に向かい、寝返った小早川の軍勢が攻撃。続いて赤座、脇坂、小川、朽木が続いて寝返ったことで西軍の状況は悪化。
三成と旧知の仲であった大谷は猛攻をしのぎ切れず自害。
一方、戦が始まっても微動だにしない島津隊。
結果、敗北を見越した三成は敗走。
こうして、たったの八時間で戦は終わり、以降徳川政権が約200年続き、泰平の世が築かれました。
どうでしたか?
知っている歴史を紐解いてみたところ、驚きの事実に肝心したのではないでしょうか?
私は石田三成が好きなのですが、この事実を知ったとき「おのれ小早川ァ!」と叫びましたね。ですが、小早川は当時まだ19歳。大戦を前に、腰が引けてしまうのも納得してしまいました_(:3 」∠)_
どんな時も、いつ状況が一変するのかわからないのは今も昔も同じ。
――———歴史は今の私たちに通じている
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