今日は広島原爆の日ですね。
小学生の頃、毎年この日は登校してみんなで平和式典を見ていたのを思い出します。
この日以外にも、さまざまな平和教育を受けました。そのたびに心を痛め、平和の大切さを学びました。
しかし、その頃は平和が大事だということをなんとなく形式的に思っていただけで、真に理解していたわけではなかったようです。
現在はどうかというと、それも自信はないですが、自分にとって本当に大切な人に生きていてほしいという気持ちが大きくなるにつれて、この世界が何事もなく回っていけばいいという思いも大きくなりました。
そう考えると、平和というのは自分の大切な人だけを守れればいいということになってしまうでしょうか。平和というのは戦争がないことだけを指すのでしょうか。
小学生のとき、平和の第一歩はまず隣の友達と仲良くすることだと教えてもらいました。身近な人と仲良くすることが、ひいては世界中の人と仲良くなれるということでしょう。
世界では今も戦争が続いています。大切な人だけを守ろうとしているわたしはあまりに無力です。
わたしにはずっとコンプレックスがありました。
わたしは広島出身ではありません。両親も広島の人ではありません。平和教育を受けても原爆の日に黙祷をしても、わたしには当事者意識を持つ資格がないと感じていました。平和を願う当事者として存在できないことが苦しかったです。
東日本大震災のときも、当事者ではない無力感から、なにか冷めた気持ちになってしまう自分を恐ろしく感じました。
病気になってかなり経ったここ数年、すこし考え方が変わってきました。
自分が今、生きたいと感じられているかどうか、それを黙祷の時間に思うようになりました。
生きていることに感謝できるかどうか、生きたくても生きられなかった先人たちに対して、代わりたいと思ってしまうか、彼らの分まで精一杯生きようと思えるか。
平穏という言葉が好きです。
穏やかに生きたいです。世界に何事も起きてほしくないです。
多くの人が、戦争や災害のない穏やかな日々を願っているのではないでしょうか。
もしかしたら平和とは、周りの人を大切にする以前に、自分が平穏に生きたいと願うことから始まるのかもしれません。
今年の黙祷では、生きたいかどうかではなく、これからどう生きていくのかを考えていました。これは平和への一歩でしょうか。
ひとまずは長崎原爆の日と終戦記念日まで、考え続けようと思います。
投稿者:O.M

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