キャリカク浜松駅前オフィス

羽音が聞こえる夜~私が丸くなる理由~

2026年06月21日 / 浜松

第一弾 私が丸くなる理由

https://kyarikaku-blog.com/office-blog/blog-kyarikaku-hamamatsu-45277/

第二弾 羽音が聞こえる夜~私が丸くなる理由~

https://kyarikaku-blog.com/office-blog/blog-kyarikaku-hamamatsu-45289/

夏の庭は、昼と夜でまったく違う顔をしている。
昼の庭は、ひまわりが太陽を見上げる場所だった。

土が乾き、葉っぱが光り、子どもの声が遠くから聞こえる。

けれど夜の庭は、少しだけ別の世界になる。

花は口を閉じる。
石は昼間の熱をゆっくり吐き出す。
草の影は深くなり、誰にも見られない小さな命たちが動き始める。

ひまわりの根元には、今年も小さなダンゴムシがいた。

私の名前は、こまる。
こまるは、あの庭にいた「先生」と呼ばれたダンゴムシの子どもだった。

こまるは、自分の父親のことをほとんど知らない。
ただ、庭に来る男の子が、ときどき話してくれる。

「君のお父さんはね、すごいダンゴムシだったんだよ」
こまるは、その言葉を聞くたびに不思議だった。

ダンゴムシがすごいとは、どういうことだろう。

空を飛べたのだろうか。
大きな石を動かせたのだろうか。
鳥を追い払ったのだろうか。

男の子は、いつも同じように言った。
「怖くなると丸くなって、でもまた開いて、少し歩いたんだ」

こまるは、ますます分からなかった。
そんなの、ダンゴムシならみんなやる。

怖くなったら丸くなる。
大丈夫そうなら開く。
少し歩く。

それのどこが、すごいのだろう。

こまるは、父親に似ていた。

少しの音で丸くなる。
落ち葉が揺れるだけで丸くなる。
男の子の影が落ちるだけで丸くなる。

でも、父親と違って、こまるは自分が丸くなることをそれほど嫌いではなかった。

なぜなら、男の子がいつも言ってくれるからだ。
「大丈夫。丸くなるのは、また開くためだから」

その言葉を聞くと、こまるは安心した。

丸くなることは、終わりじゃない。
丸くなることは、弱さじゃない。
丸くなることは、自分を守る方法。

その庭では、それがひとつの合言葉のようになっていた。

男の子は、以前より背が伸びていた。
ランドセルはまだ背負っているけれど、前ほど重そうではない。

学校に行ける日も増えた。
それでも、行けない日もある。

行けない日は、庭に来て言う。
「今日は丸い日」

こまるは、その声を聞くと、なぜか少し誇らしくなった。
自分たちダンゴムシの丸さが、誰かの言葉になっている。
小さな命が、誰かの心の形になっている。

それは、こまるにとって、ひまわりが咲くことよりも不思議なことだった。

そんなある夜のことだった。
庭に、細い音が降りてきた。

ぷうん。

こまるは、すぐに丸くなった。
その音は、石の転がる音でも、葉っぱの揺れる音でもなかった。

もっと細く、もっと近く、耳の奥をくすぐるような音だった。

ぷうん。

音は、ひまわりの葉の間を通り、植木鉢の縁をかすめ、こまるの近くを回った。
こまるは丸くなったまま思った。

何だろう。
この音は、何だろう。

すると、夜の闇の中から、小さな声がした。

「そんなに怖がらなくてもいいのに」

こまるは丸いまま、体の内側で震えた。

「だ、だれ?」
「私」
「私って、だれ?」
「蚊よ」

こまるは、もっと強く丸くなった。

蚊。

庭の生き物たちは、蚊のことをあまり良く言わない。

うるさい。
刺す。
かゆくする。
追い払われる。
嫌われる。

男の子も、夏になるとよく腕をかきながら言っていた。

「蚊に刺された。かゆい。もう嫌だ」
だからこまるにとって、蚊は怖い存在だった。

「近づかないで」
こまるは言った。

蚊は、少し離れたところで羽を休めた。

ひまわりの葉の裏に止まったその体は、とても細かった。

風が吹けば折れてしまいそうな足。
糸みたいな羽。
影よりも小さな体。

こまるは思った。
こんなに小さいのに、どうしてみんなに嫌われるのだろう。

蚊は、こまるを見て言った。

「あなた、丸くなるのが上手ね」
「上手とかじゃない。怖いだけ」
「怖いと丸くなれるなんて、いいわね」

こまるは驚いた。

「いい?」
「ええ。私は丸くなれないもの」

蚊は、羽を震わせた。
「怖くても、逃げるしかない。追われても、飛ぶしかない。嫌われても、飛ぶしかない」

こまるは、少しだけ体をゆるめた。

「蚊は、みんなを困らせるから嫌われるんでしょ」

蚊は黙った。

夜の庭に、遠くの車の音が薄く流れた。

しばらくして、蚊は小さな声で言った。

「そうね。私は嫌われる」
その声は、思っていたよりも寂しそうだった。
「でも、好きで嫌われているわけじゃない」

こまるは丸いまま、蚊の言葉を聞いていた。

蚊は続けた。

「私たちは、長く生きられない。風に飛ばされることもある。雨に落とされることもある。手で叩かれることもある。どこへ行っても、歓迎されない」

「じゃあ、どうして近づくの?」
「生きるため」

蚊は、まっすぐ言った。

「私には、私の理由があるの」

こまるは、その言葉をすぐには理解できなかった。

理由。
まるくなる理由。
飛ぶ理由。
近づく理由。

嫌われても、生きる理由。
庭の夜は、思っていたよりもずっと深かった。

次の日の朝、男の子は庭に来た。

腕には、赤く小さな跡があった。

「また蚊に刺された」

男の子は、少し不機嫌そうに腕をかいた。
こまるは、ひまわりの根元でそれを見ていた。
男の子はしゃがみこんで、こまるを見つけた。

「おはよう、こまる先生」
先生。

そう呼ばれるたび、こまるは困る。
まだ自分は何も教えられない。

父親のように、誰かの心を救ったこともない。
こまるは、男の子の影に驚いて丸くなった。

ころん。

男の子は笑った。
「今日も丸いね」

いつもなら、それで終わりだった。

でもその日、男の子は腕をかきながら言った。
「蚊って、なんでいるんだろうね」

こまるは、丸い体の中で蚊の言葉を思い出した。
私には、私の理由があるの。

男の子は続けた。
「かゆくするだけじゃん。うるさいし。嫌われるだけなのに」

その言葉は、こまるの胸にひっかかった。

蚊のことが好きになったわけではない。
刺されたいわけでもない。

男の子がかゆそうにしているのを見るのも嫌だった。

でも、こまるは昨夜の蚊の声を思い出していた。

嫌われても、飛ぶしかない。
丸くなれない。
生きるため。

その日の夜、こまるは蚊を待っていた。

本当は怖かった。

でも、聞きたいことがあった。

月が植木鉢の影を長く伸ばしたころ、あの細い音が戻ってきた。

ぷうん。

「また丸くなる?」

蚊の声がした。

こまるは、少しだけ丸くなりかけた。

でも、今日は完全には丸くならなかった。

「聞きたいことがある」
「なに?」
「どうして、嫌われても近づくの?」

蚊は、ひまわりの葉に止まった。
夜露が、葉っぱの縁で小さく光っていた。

「私はね、母になる準備をしているの」
こまるは驚いた。

「母?」
「そう。小さな命を残すために、私は飛んでいる」
「でも、刺したら嫌われる」
「分かってる」
「叩かれるかもしれない」
「分かってる」
「それでも行くの?」
「それでも行くの」

蚊の声は静かだった。
強がっているようには聞こえなかった。

ただ、そうするしかない命の声だった。
「怖くないの?」
こまるが聞くと、蚊は少し笑った。

「怖いに決まってるじゃない」
「じゃあ、どうして丸くならないの?」
「丸くなる体をもらえなかったから」

こまるは何も言えなかった。

蚊は空を見上げた。

「あなたたちは怖いとき、丸くなれる。私は怖いとき、飛ぶしかない。飛んで、逃げて、また近づくしかない」

こまるは、その言葉を聞いて、初めて思った。
自分が持っている守り方を、他の誰もが持っているわけではない。
自分にとって当たり前の丸さは、誰かにとっては叶わないものかもしれない。

その夜から、こまるは蚊と話すようになった。

蚊の名前は、すいだった。
すいは、長い話をする蚊ではなかった。

ただ、ときどき夜の庭に現れて、ひまわりの葉の裏で羽を休めた。

すいは、庭のことをよく知っていた。
どの草の影に蜘蛛の巣があるか。
どの水たまりが危ないか。
どの時間に人間が庭へ出てくるか。
どの風が雨を連れてくるか。

すいは、嫌われているぶん、世界をよく見ていた。

近づくと追われる。
羽音を立てると叩かれる。
だから、いつも周りを見る。

こまるは、すいの話を聞くたびに思った。
この蚊は、ただうるさいだけじゃない。
ただ刺すだけの存在じゃない。

とても小さな体で、いつも危険の中を飛んでいる。

ある夜、すいはこまるに言った。

「あなたは、いいわね」
「またそれ?」
「ええ。怖いとき、誰も傷つけずに丸くなれる」

こまるは黙った。

すいは続けた。

「私は生きるために近づく。でも、近づけば誰かをかゆくさせる。嫌な思いをさせる。私が生きようとすることが、誰かの不快になる」

その声は、羽音よりも細かった。

「そんなの、悲しいね」
こまるが言うと、すいは笑った。

「そうね。でも、悲しいからといって、生きることをやめるわけにはいかないの」
こまるは、すいのことを少しずつ知っていった。

そして同時に、男の子のことも少しずつ知っていった。

男の子は、学校に行けるようになってきたけれど、最近また少し元気がなかった。
庭に来ても、ひまわりに水をやる手が止まることがある。

空を見上げて、ため息をつくことがある。
こまるを見ても、前ほど笑わない日がある。

ある夕方、男の子は庭でひとり言を言った。

「ぼく、嫌われたかもしれない」
こまるは、石のかげで聞いていた。

男の子は、ひまわりの根元にしゃがみこんだ。

「友だちに、やめてって言ったんだ」
誰も返事をしなかった。

でも、男の子は話し続けた。
「ずっとからかわれてて、本当は嫌だった。でも笑ってた。笑ってないと、空気が悪くなると思ってた。でも今日、もうやめてって言った」

男の子の声は震えていた。
「そしたら、その子、黙っちゃって。みんなも変な顔して。ぼく、悪いことしたのかな」

こまるは、丸くなりそうになった。

誰かとぶつかること。
嫌だと言うこと。
自分を守ろうとすること。

それは、男の子にとって、とても怖いことなのだと分かった。

夜、すいが来た。
こまるは、男の子の話をした。

すいは静かに聞いていた。
そして言った。

「その子は、刺したのね」
こまるは驚いた。

「刺した? 男の子が?」
「ええ」
「でも、蚊みたいに血を吸ったわけじゃない」
「そうじゃないわ」

すいは、ひまわりの葉の上で羽を閉じた。

「誰かに“嫌だ”と伝えることは、ときどき相手をチクリとさせるの。相手は痛い顔をするかもしれない。驚くかもしれない。不機嫌になるかもしれない」
「じゃあ、言わないほうがいいの?」
「いいえ」

すいはすぐに言った。

「自分を守るために、必要なチクリもある」

こまるは、すいを見た。

「必要なチクリ」
「そう。誰かを傷つけるためじゃなくて、自分の境界線を知らせるためのチクリ」

すいは、少しだけ寂しそうに笑った。

「私のチクリは嫌われるけれど、あの子のチクリは、生きるために必要だったんじゃないかしら」

こまるは、その言葉を朝まで考えた。

丸くなることは、自分を守る方法。

でも、丸くなるだけでは守れないときもある。

逃げる。
距離をとる。
嫌だと言う。
助けを求める。
境界線を引く。
守り方は、ひとつではない。

次の日、男の子は庭に来た。
目の下に、少しだけ疲れがあった。

「こまる先生」
男の子はしゃがみこんだ。

「ぼく、昨日からずっと考えてる」
こまるは、今日は丸くならなかった。

男の子は言った。
「やめてって言わなければ、友だちは嫌な顔しなかったと思う。でも、ぼくはずっと嫌だった」

こまるは、すいの言葉を思い出した。
必要なチクリ。

男の子は、腕の蚊に刺された跡を見た。
「蚊に刺されるのは嫌だけどさ」

そして、少し笑った。
「もしかして、蚊にも理由があるのかな」
こまるは、触角を動かした。

男の子は続けた。
「ぼくが“やめて”って言ったのも、誰かから見たら嫌だったかもしれない。でも、ぼくには理由があった」

その声は、昨日より少しだけ強かった。
「丸くなるだけじゃなくて、チクリって言わなきゃいけない日もあるんだね」

こまるは、初めて自分から男の子の靴の近くまで歩いた。
男の子は驚いて、息を止めた。

「こまる先生?」
こまるは、丸くならなかった。

ほんの少しだけ、前に進んだ。
男の子は、涙ぐんだように笑った。

「そっか。先生も、今日は開く日なんだ」
その日の夕方、男の子は学校から帰ってくると、庭に駆け込んできた。

「聞いて!」
お母さんではなく、ひまわりでもなく、こまるに向かって言った。

「友だちが、ごめんって言ってくれた」
こまるは石の上にいた。

「ぼくも、強く言いすぎたかもって言った。でも、嫌だったことは本当だって言った」
男の子は少し息を弾ませていた。

「そしたら、また一緒に帰った」

風がひまわりの葉を揺らした。

男の子は空を見上げた。
「怖かったけど、言ってよかった」

夜、すいが来た。
こまるはその話をした。

すいは何も言わず、月の光の中を少し飛んだ。

「よかったわね」
「うん」
「その子は、ちゃんと自分を守れたのね」
「すいのおかげかもしれない」
「私?」

すいは驚いた。

「ぼく、すいが言ってた“必要なチクリ”の話を思い出した」

すいは、しばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと言った。

「私、誰かの役に立ったの?」

こまるは答えた。

「たぶん」
「嫌われる私が?」
「うん」

すいの羽が、小さく震えた。
それは風のせいではなかった。

「変ね」
すいは言った。

「嫌われることばかり考えていたのに。誰かの心に、少しだけ残れることもあるのね」
こまるは、父親のことを思った。

怖がりで、すぐ丸くなるだけだったダンゴムシ。

でも、その丸さが、男の子の心に残った。
そして今、嫌われ者の蚊の言葉が、男の子の背中を少し押した。

命は、自分で思うほど単純ではないのかもしれない。
弱いと思っていたものが、誰かの安心になる。
嫌われると思っていたものが、誰かの勇気になる。
小さすぎて意味がないと思っていた命が、誰かの明日を変える。

夏の終わりが近づいたころ、すいは庭に来る回数が減った。

こまるは、毎晩ひまわりの葉の下で待った。
けれど、あの細い羽音はなかなか聞こえなかった。

ある夜、雨が降った。
強い雨ではなかった。

けれど、小さな蚊にとっては十分すぎるほど重い雨だった。

こまるは石の下で丸くなっていた。
雨音の中に、かすかな羽音が混じった気がした。

ぷうん。

こまるは体を開いた。

「すい?」

返事はなかった。

こまるは、石の下から出た。
雨粒が背中に落ちた。

冷たくて、重かった。
ダンゴムシは湿った場所が好きだ。

けれど、その夜の雨は、優しさよりも寂しさに近かった。

ひまわりの根元に、小さな影があった。

すいだった。

羽が濡れて、うまく飛べなくなっていた。

「すい!」
こまるは近づいた。

すいは、かすかに羽を動かした。

「来ちゃだめよ。濡れるわ」
「ぼくは濡れても大丈夫」
「そうだったわね」

すいは、少し笑った。
こまるは、すいのそばに立った。

「飛べる?」
「少し休めば」

その声は弱かった。
こまるは、自分の体を丸めかけた。

怖かった。
すいが消えてしまいそうで怖かった。
何もできない自分が怖かった。

でも、こまるは丸くならなかった。

「ぼくにできることある?」
すいは、こまるを見た。

「あなたが?」
「うん」
「ダンゴムシが蚊を助けるなんて、変ね」
「変でもいい」

すいは目を閉じるように、羽を少し伏せた。

「じゃあ、そこにいて」
「それだけ?」
「それだけ」

こまるは動かなかった。

雨が降る。
土が濡れる。

ひまわりの葉からしずくが落ちる。
こまるは、すいのそばにいた。

何もできなかった。
羽を乾かすこともできない。
雨を止めることもできない。
すいを抱える手もない。

ただ、そばにいた。

しばらくして、すいが言った。

「あなたのお父さんの話、男の子から聞いたことがある」
「父さんの?」
「ええ。怖いときに丸くなって、また開く先生だったって」

こまるは黙った。

「あなたも似ているわ」
「ぼくは、まだ何も教えられない」
「教えているわ」
「何を?」

すいは、ゆっくり言った。

「何もできなくても、そばにいることはできるって」

こまるは、雨の中でじっとしていた。

その言葉は、小さな体の奥に、静かに沈んでいった。

何かを解決できなくてもいい。
励ませなくてもいい。
正しい言葉を知らなくてもいい。

ただ、そばにいることが、誰かの夜を少しだけ越えさせることがある。
雨が上がったころ、すいは少しだけ羽を動かした。

「もう行ける?」
こまるが聞くと、すいは首を振った。

「たぶん、遠くへは行けない」
「そんな」
「蚊の夏は短いの」

すいは、湿った空を見た。

「でも、悪くない夏だった」
「嫌われてばかりだったのに?」
「ええ」

すいは、こまるを見た。

「あなたが、私の理由を聞いてくれたから」

こまるは何も言えなかった。

すいは続けた。

「誰にも好かれなくても、自分の理由を一度でも聞いてもらえたら、少しだけ救われるのね」

朝が近づいていた。
空の端が、ほんの少し青くなった。

すいは、最後に小さく羽を震わせた。

ぷうん。

それは、うるさい音ではなかった。
誰かを困らせる音でもなかった。

こまるには、それが「ありがとう」に聞こえた。

その朝、男の子は庭に来た。
雨上がりの土を踏み、ひまわりの根元にしゃがんだ。

こまるは、すいがいた場所のそばにいた。
男の子は、小さな蚊の体を見つけた。

最初は、いつものように少し顔をしかめた。
でも、すぐに表情が変わった。

「この蚊、死んじゃったの?」
こまるは動かなかった。

男の子は、そっと手を合わせた。

「ぼく、蚊は嫌いだけど」
少し考えてから、男の子は言った。

「でも、この子にも理由があったのかな」
こまるは、触角を動かした。

男の子は、庭の土に小さな穴を掘った。

そして、すいをそっと入れた。

「さよなら」

その声は、とても静かだった。

「君のチクリ、ちょっとかゆかったけど」

男の子は、少し笑った。

「ぼく、嫌だって言えるようになったよ」

風が吹いた。
ひまわりはもう終わりに近かった。

でも、その根元には、次の季節へつながる種が落ちていた。

男の子は、こまるを見た。

「こまる先生」
こまるは、今日は丸くならなかった。

「丸くなることも、チクリって言うことも、どっちも自分を守ることなんだね」
こまるは、一歩進んだ。


男の子は続けた。
「ぼく、これからも怖くなったら丸くなると思う。でも、嫌なことを嫌って言う日もあると思う」

そして、空を見上げた。
「どっちも、ぼくが生きるためなんだね」

夏が終わった。
蚊の羽音は聞こえなくなった。

ひまわりは種を残し、庭は秋の匂いに変わっていった。
こまるは、相変わらず怖がりだった。

大きな音がすれば丸くなる。
鳥の影が通れば丸くなる。
男の子が急に走ってくれば丸くなる。

でも、少し変わったことがあった。
丸くなる前に、一度だけ周りを見るようになった。

逃げるのか。
丸くなるのか。
近づくのか。
声を出すのか。
そばにいるのか。
守り方は、ひとつではない。

それを、嫌われ者の蚊が教えてくれた。

ある日、男の子は学校から帰ってくると、庭にノートを持ってきた。
宿題だった。

「好きな生き物について書きましょう」

男の子は、最初にダンゴムシの絵を描いた。

丸くなった小さな体。
その横に、こう書いた。

ダンゴムシは、怖いときに丸くなります。
それは弱いからではなく、自分を守るためです。
丸くなっても、また開けます。

次に、男の子は少し迷ってから、蚊の絵を描いた。

細い足。
小さな羽。
ぷうん、という音。

そして、こう書いた。

蚊は、みんなに嫌われます。
ぼくも刺されるとかゆいので嫌です。

でも、蚊にも生きる理由があります。
嫌われるものにも、理由があるかもしれません。

人も同じです。
丸くなって自分を守る日もあります。
チクリと言って自分を守る日もあります。
どちらも、悪いことではありません。

男の子は鉛筆を止めた。

しばらく考えて、最後に一文を書き足した。

ぼくは、誰かの理由をすぐに決めつけない人になりたいです。
それを読んだ先生は、赤い丸をつけた。

でも男の子にとって、その赤い丸よりも大事なものがあった。

それは、庭の土の中にいる小さな先生たちのことを、自分の言葉で書けたことだった。

夜、こまるはひまわりの枯れた茎の下で空を見上げた。
もう、すいの羽音は聞こえない。

でも、風が草を揺らすたびに、こまるは思い出す。

嫌われても、飛んでいた小さな命。
自分の理由を誰かに聞いてほしかった命。
最後の羽音が、ありがとうに聞こえた夜。

こまるは、そっと丸くなった。

悲しかったからではない。
怖かったからでもない。

ただ、大切なものを胸の中で守りたかったから。

丸くなる理由は、ひとつではない。
怖いから丸くなる日もある。
休むために丸くなる日もある。
大切な記憶を抱きしめるために丸くなる日もある。

そしていつか、また開く。
開いたら、少し歩く。

その一歩の先に、誰かの理由を聞ける夜があるかもしれないから。
雨上がりの庭には、世界の秘密が落ちている。

丸くなる命。
飛び続ける命。
咲く命。
枯れて、種を残す命。

誰かから見れば、弱く見える。
誰かから見れば、迷惑に見える。
誰かから見れば、意味がないように見える。

でも、それぞれに理由がある。

丸くなる理由。
飛ぶ理由。
刺す理由。
逃げる理由。
そばにいる理由。
また歩き出す理由。

そして、小さな命たちは今日も、誰にも気づかれない場所で、誰かの心にそっと言葉を残している。

大丈夫。

あなたがあなたを守る理由を、すぐに誰かが分かってくれなくてもいい。
それでも、その理由は、ちゃんとここにある。

あなたが丸くなる夜にも。
あなたがチクリと声を出す朝にも。
あなたがまた少し開いて歩き出す、その小さな一歩の中にも。

第一弾 私が丸くなる理由

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第二弾 羽音が聞こえる夜~私が丸くなる理由~

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