第一弾 私が丸くなる理由
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第二弾 羽音が聞こえる夜~私が丸くなる理由~
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夏の庭は、昼と夜でまったく違う顔をしている。
昼の庭は、ひまわりが太陽を見上げる場所だった。
土が乾き、葉っぱが光り、子どもの声が遠くから聞こえる。
けれど夜の庭は、少しだけ別の世界になる。
花は口を閉じる。
石は昼間の熱をゆっくり吐き出す。
草の影は深くなり、誰にも見られない小さな命たちが動き始める。
ひまわりの根元には、今年も小さなダンゴムシがいた。
私の名前は、こまる。
こまるは、あの庭にいた「先生」と呼ばれたダンゴムシの子どもだった。
こまるは、自分の父親のことをほとんど知らない。
ただ、庭に来る男の子が、ときどき話してくれる。
「君のお父さんはね、すごいダンゴムシだったんだよ」
こまるは、その言葉を聞くたびに不思議だった。
ダンゴムシがすごいとは、どういうことだろう。
空を飛べたのだろうか。
大きな石を動かせたのだろうか。
鳥を追い払ったのだろうか。
男の子は、いつも同じように言った。
「怖くなると丸くなって、でもまた開いて、少し歩いたんだ」
こまるは、ますます分からなかった。
そんなの、ダンゴムシならみんなやる。
怖くなったら丸くなる。
大丈夫そうなら開く。
少し歩く。
それのどこが、すごいのだろう。
こまるは、父親に似ていた。
少しの音で丸くなる。
落ち葉が揺れるだけで丸くなる。
男の子の影が落ちるだけで丸くなる。
でも、父親と違って、こまるは自分が丸くなることをそれほど嫌いではなかった。
なぜなら、男の子がいつも言ってくれるからだ。
「大丈夫。丸くなるのは、また開くためだから」
その言葉を聞くと、こまるは安心した。
丸くなることは、終わりじゃない。
丸くなることは、弱さじゃない。
丸くなることは、自分を守る方法。
その庭では、それがひとつの合言葉のようになっていた。
男の子は、以前より背が伸びていた。
ランドセルはまだ背負っているけれど、前ほど重そうではない。
学校に行ける日も増えた。
それでも、行けない日もある。
行けない日は、庭に来て言う。
「今日は丸い日」
こまるは、その声を聞くと、なぜか少し誇らしくなった。
自分たちダンゴムシの丸さが、誰かの言葉になっている。
小さな命が、誰かの心の形になっている。
それは、こまるにとって、ひまわりが咲くことよりも不思議なことだった。
そんなある夜のことだった。
庭に、細い音が降りてきた。
ぷうん。
こまるは、すぐに丸くなった。
その音は、石の転がる音でも、葉っぱの揺れる音でもなかった。
もっと細く、もっと近く、耳の奥をくすぐるような音だった。
ぷうん。
音は、ひまわりの葉の間を通り、植木鉢の縁をかすめ、こまるの近くを回った。
こまるは丸くなったまま思った。
何だろう。
この音は、何だろう。
すると、夜の闇の中から、小さな声がした。
「そんなに怖がらなくてもいいのに」
こまるは丸いまま、体の内側で震えた。
「だ、だれ?」
「私」
「私って、だれ?」
「蚊よ」
こまるは、もっと強く丸くなった。
蚊。
庭の生き物たちは、蚊のことをあまり良く言わない。
うるさい。
刺す。
かゆくする。
追い払われる。
嫌われる。
男の子も、夏になるとよく腕をかきながら言っていた。
「蚊に刺された。かゆい。もう嫌だ」
だからこまるにとって、蚊は怖い存在だった。
「近づかないで」
こまるは言った。
蚊は、少し離れたところで羽を休めた。
ひまわりの葉の裏に止まったその体は、とても細かった。
風が吹けば折れてしまいそうな足。
糸みたいな羽。
影よりも小さな体。
こまるは思った。
こんなに小さいのに、どうしてみんなに嫌われるのだろう。
蚊は、こまるを見て言った。
「あなた、丸くなるのが上手ね」
「上手とかじゃない。怖いだけ」
「怖いと丸くなれるなんて、いいわね」
こまるは驚いた。
「いい?」
「ええ。私は丸くなれないもの」
蚊は、羽を震わせた。
「怖くても、逃げるしかない。追われても、飛ぶしかない。嫌われても、飛ぶしかない」
こまるは、少しだけ体をゆるめた。
「蚊は、みんなを困らせるから嫌われるんでしょ」
蚊は黙った。
夜の庭に、遠くの車の音が薄く流れた。
しばらくして、蚊は小さな声で言った。
「そうね。私は嫌われる」
その声は、思っていたよりも寂しそうだった。
「でも、好きで嫌われているわけじゃない」
こまるは丸いまま、蚊の言葉を聞いていた。
蚊は続けた。
「私たちは、長く生きられない。風に飛ばされることもある。雨に落とされることもある。手で叩かれることもある。どこへ行っても、歓迎されない」
「じゃあ、どうして近づくの?」
「生きるため」
蚊は、まっすぐ言った。
「私には、私の理由があるの」

こまるは、その言葉をすぐには理解できなかった。
理由。
まるくなる理由。
飛ぶ理由。
近づく理由。
嫌われても、生きる理由。
庭の夜は、思っていたよりもずっと深かった。
次の日の朝、男の子は庭に来た。
腕には、赤く小さな跡があった。
「また蚊に刺された」
男の子は、少し不機嫌そうに腕をかいた。
こまるは、ひまわりの根元でそれを見ていた。
男の子はしゃがみこんで、こまるを見つけた。
「おはよう、こまる先生」
先生。
そう呼ばれるたび、こまるは困る。
まだ自分は何も教えられない。
父親のように、誰かの心を救ったこともない。
こまるは、男の子の影に驚いて丸くなった。
ころん。
男の子は笑った。
「今日も丸いね」
いつもなら、それで終わりだった。
でもその日、男の子は腕をかきながら言った。
「蚊って、なんでいるんだろうね」
こまるは、丸い体の中で蚊の言葉を思い出した。
私には、私の理由があるの。
男の子は続けた。
「かゆくするだけじゃん。うるさいし。嫌われるだけなのに」
その言葉は、こまるの胸にひっかかった。
蚊のことが好きになったわけではない。
刺されたいわけでもない。
男の子がかゆそうにしているのを見るのも嫌だった。
でも、こまるは昨夜の蚊の声を思い出していた。
嫌われても、飛ぶしかない。
丸くなれない。
生きるため。
その日の夜、こまるは蚊を待っていた。
本当は怖かった。
でも、聞きたいことがあった。
月が植木鉢の影を長く伸ばしたころ、あの細い音が戻ってきた。
ぷうん。
「また丸くなる?」
蚊の声がした。
こまるは、少しだけ丸くなりかけた。
でも、今日は完全には丸くならなかった。
「聞きたいことがある」
「なに?」
「どうして、嫌われても近づくの?」
蚊は、ひまわりの葉に止まった。
夜露が、葉っぱの縁で小さく光っていた。
「私はね、母になる準備をしているの」
こまるは驚いた。
「母?」
「そう。小さな命を残すために、私は飛んでいる」
「でも、刺したら嫌われる」
「分かってる」
「叩かれるかもしれない」
「分かってる」
「それでも行くの?」
「それでも行くの」
蚊の声は静かだった。
強がっているようには聞こえなかった。
ただ、そうするしかない命の声だった。
「怖くないの?」
こまるが聞くと、蚊は少し笑った。
「怖いに決まってるじゃない」
「じゃあ、どうして丸くならないの?」
「丸くなる体をもらえなかったから」
こまるは何も言えなかった。
蚊は空を見上げた。
「あなたたちは怖いとき、丸くなれる。私は怖いとき、飛ぶしかない。飛んで、逃げて、また近づくしかない」
こまるは、その言葉を聞いて、初めて思った。
自分が持っている守り方を、他の誰もが持っているわけではない。
自分にとって当たり前の丸さは、誰かにとっては叶わないものかもしれない。
その夜から、こまるは蚊と話すようになった。
蚊の名前は、すいだった。
すいは、長い話をする蚊ではなかった。
ただ、ときどき夜の庭に現れて、ひまわりの葉の裏で羽を休めた。
すいは、庭のことをよく知っていた。
どの草の影に蜘蛛の巣があるか。
どの水たまりが危ないか。
どの時間に人間が庭へ出てくるか。
どの風が雨を連れてくるか。
すいは、嫌われているぶん、世界をよく見ていた。
近づくと追われる。
羽音を立てると叩かれる。
だから、いつも周りを見る。
こまるは、すいの話を聞くたびに思った。
この蚊は、ただうるさいだけじゃない。
ただ刺すだけの存在じゃない。
とても小さな体で、いつも危険の中を飛んでいる。
ある夜、すいはこまるに言った。
「あなたは、いいわね」
「またそれ?」
「ええ。怖いとき、誰も傷つけずに丸くなれる」
こまるは黙った。
すいは続けた。
「私は生きるために近づく。でも、近づけば誰かをかゆくさせる。嫌な思いをさせる。私が生きようとすることが、誰かの不快になる」
その声は、羽音よりも細かった。
「そんなの、悲しいね」
こまるが言うと、すいは笑った。
「そうね。でも、悲しいからといって、生きることをやめるわけにはいかないの」
こまるは、すいのことを少しずつ知っていった。
そして同時に、男の子のことも少しずつ知っていった。
男の子は、学校に行けるようになってきたけれど、最近また少し元気がなかった。
庭に来ても、ひまわりに水をやる手が止まることがある。
空を見上げて、ため息をつくことがある。
こまるを見ても、前ほど笑わない日がある。
ある夕方、男の子は庭でひとり言を言った。
「ぼく、嫌われたかもしれない」
こまるは、石のかげで聞いていた。
男の子は、ひまわりの根元にしゃがみこんだ。
「友だちに、やめてって言ったんだ」
誰も返事をしなかった。
でも、男の子は話し続けた。
「ずっとからかわれてて、本当は嫌だった。でも笑ってた。笑ってないと、空気が悪くなると思ってた。でも今日、もうやめてって言った」
男の子の声は震えていた。
「そしたら、その子、黙っちゃって。みんなも変な顔して。ぼく、悪いことしたのかな」
こまるは、丸くなりそうになった。
誰かとぶつかること。
嫌だと言うこと。
自分を守ろうとすること。
それは、男の子にとって、とても怖いことなのだと分かった。
夜、すいが来た。
こまるは、男の子の話をした。
すいは静かに聞いていた。
そして言った。
「その子は、刺したのね」
こまるは驚いた。
「刺した? 男の子が?」
「ええ」
「でも、蚊みたいに血を吸ったわけじゃない」
「そうじゃないわ」
すいは、ひまわりの葉の上で羽を閉じた。
「誰かに“嫌だ”と伝えることは、ときどき相手をチクリとさせるの。相手は痛い顔をするかもしれない。驚くかもしれない。不機嫌になるかもしれない」
「じゃあ、言わないほうがいいの?」
「いいえ」
すいはすぐに言った。
「自分を守るために、必要なチクリもある」
こまるは、すいを見た。
「必要なチクリ」
「そう。誰かを傷つけるためじゃなくて、自分の境界線を知らせるためのチクリ」
すいは、少しだけ寂しそうに笑った。
「私のチクリは嫌われるけれど、あの子のチクリは、生きるために必要だったんじゃないかしら」
こまるは、その言葉を朝まで考えた。
丸くなることは、自分を守る方法。
でも、丸くなるだけでは守れないときもある。
逃げる。
距離をとる。
嫌だと言う。
助けを求める。
境界線を引く。
守り方は、ひとつではない。
次の日、男の子は庭に来た。
目の下に、少しだけ疲れがあった。
「こまる先生」
男の子はしゃがみこんだ。
「ぼく、昨日からずっと考えてる」
こまるは、今日は丸くならなかった。
男の子は言った。
「やめてって言わなければ、友だちは嫌な顔しなかったと思う。でも、ぼくはずっと嫌だった」
こまるは、すいの言葉を思い出した。
必要なチクリ。
男の子は、腕の蚊に刺された跡を見た。
「蚊に刺されるのは嫌だけどさ」
そして、少し笑った。
「もしかして、蚊にも理由があるのかな」
こまるは、触角を動かした。

男の子は続けた。
「ぼくが“やめて”って言ったのも、誰かから見たら嫌だったかもしれない。でも、ぼくには理由があった」
その声は、昨日より少しだけ強かった。
「丸くなるだけじゃなくて、チクリって言わなきゃいけない日もあるんだね」
こまるは、初めて自分から男の子の靴の近くまで歩いた。
男の子は驚いて、息を止めた。
「こまる先生?」
こまるは、丸くならなかった。
ほんの少しだけ、前に進んだ。
男の子は、涙ぐんだように笑った。
「そっか。先生も、今日は開く日なんだ」
その日の夕方、男の子は学校から帰ってくると、庭に駆け込んできた。
「聞いて!」
お母さんではなく、ひまわりでもなく、こまるに向かって言った。
「友だちが、ごめんって言ってくれた」
こまるは石の上にいた。
「ぼくも、強く言いすぎたかもって言った。でも、嫌だったことは本当だって言った」
男の子は少し息を弾ませていた。
「そしたら、また一緒に帰った」
風がひまわりの葉を揺らした。
男の子は空を見上げた。
「怖かったけど、言ってよかった」
夜、すいが来た。
こまるはその話をした。
すいは何も言わず、月の光の中を少し飛んだ。
「よかったわね」
「うん」
「その子は、ちゃんと自分を守れたのね」
「すいのおかげかもしれない」
「私?」
すいは驚いた。
「ぼく、すいが言ってた“必要なチクリ”の話を思い出した」
すいは、しばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと言った。
「私、誰かの役に立ったの?」
こまるは答えた。
「たぶん」
「嫌われる私が?」
「うん」
すいの羽が、小さく震えた。
それは風のせいではなかった。
「変ね」
すいは言った。
「嫌われることばかり考えていたのに。誰かの心に、少しだけ残れることもあるのね」
こまるは、父親のことを思った。
怖がりで、すぐ丸くなるだけだったダンゴムシ。
でも、その丸さが、男の子の心に残った。
そして今、嫌われ者の蚊の言葉が、男の子の背中を少し押した。
命は、自分で思うほど単純ではないのかもしれない。
弱いと思っていたものが、誰かの安心になる。
嫌われると思っていたものが、誰かの勇気になる。
小さすぎて意味がないと思っていた命が、誰かの明日を変える。
夏の終わりが近づいたころ、すいは庭に来る回数が減った。
こまるは、毎晩ひまわりの葉の下で待った。
けれど、あの細い羽音はなかなか聞こえなかった。
ある夜、雨が降った。
強い雨ではなかった。
けれど、小さな蚊にとっては十分すぎるほど重い雨だった。
こまるは石の下で丸くなっていた。
雨音の中に、かすかな羽音が混じった気がした。
ぷうん。
こまるは体を開いた。
「すい?」
返事はなかった。
こまるは、石の下から出た。
雨粒が背中に落ちた。
冷たくて、重かった。
ダンゴムシは湿った場所が好きだ。
けれど、その夜の雨は、優しさよりも寂しさに近かった。
ひまわりの根元に、小さな影があった。
すいだった。
羽が濡れて、うまく飛べなくなっていた。
「すい!」
こまるは近づいた。
すいは、かすかに羽を動かした。
「来ちゃだめよ。濡れるわ」
「ぼくは濡れても大丈夫」
「そうだったわね」
すいは、少し笑った。
こまるは、すいのそばに立った。
「飛べる?」
「少し休めば」
その声は弱かった。
こまるは、自分の体を丸めかけた。
怖かった。
すいが消えてしまいそうで怖かった。
何もできない自分が怖かった。
でも、こまるは丸くならなかった。
「ぼくにできることある?」
すいは、こまるを見た。
「あなたが?」
「うん」
「ダンゴムシが蚊を助けるなんて、変ね」
「変でもいい」
すいは目を閉じるように、羽を少し伏せた。
「じゃあ、そこにいて」
「それだけ?」
「それだけ」
こまるは動かなかった。
雨が降る。
土が濡れる。
ひまわりの葉からしずくが落ちる。
こまるは、すいのそばにいた。

何もできなかった。
羽を乾かすこともできない。
雨を止めることもできない。
すいを抱える手もない。
ただ、そばにいた。
しばらくして、すいが言った。
「あなたのお父さんの話、男の子から聞いたことがある」
「父さんの?」
「ええ。怖いときに丸くなって、また開く先生だったって」
こまるは黙った。
「あなたも似ているわ」
「ぼくは、まだ何も教えられない」
「教えているわ」
「何を?」
すいは、ゆっくり言った。
「何もできなくても、そばにいることはできるって」
こまるは、雨の中でじっとしていた。
その言葉は、小さな体の奥に、静かに沈んでいった。
何かを解決できなくてもいい。
励ませなくてもいい。
正しい言葉を知らなくてもいい。
ただ、そばにいることが、誰かの夜を少しだけ越えさせることがある。
雨が上がったころ、すいは少しだけ羽を動かした。
「もう行ける?」
こまるが聞くと、すいは首を振った。
「たぶん、遠くへは行けない」
「そんな」
「蚊の夏は短いの」
すいは、湿った空を見た。
「でも、悪くない夏だった」
「嫌われてばかりだったのに?」
「ええ」
すいは、こまるを見た。
「あなたが、私の理由を聞いてくれたから」
こまるは何も言えなかった。
すいは続けた。
「誰にも好かれなくても、自分の理由を一度でも聞いてもらえたら、少しだけ救われるのね」
朝が近づいていた。
空の端が、ほんの少し青くなった。
すいは、最後に小さく羽を震わせた。
ぷうん。
それは、うるさい音ではなかった。
誰かを困らせる音でもなかった。
こまるには、それが「ありがとう」に聞こえた。
その朝、男の子は庭に来た。
雨上がりの土を踏み、ひまわりの根元にしゃがんだ。
こまるは、すいがいた場所のそばにいた。
男の子は、小さな蚊の体を見つけた。
最初は、いつものように少し顔をしかめた。
でも、すぐに表情が変わった。
「この蚊、死んじゃったの?」
こまるは動かなかった。
男の子は、そっと手を合わせた。
「ぼく、蚊は嫌いだけど」
少し考えてから、男の子は言った。
「でも、この子にも理由があったのかな」
こまるは、触角を動かした。
男の子は、庭の土に小さな穴を掘った。
そして、すいをそっと入れた。
「さよなら」
その声は、とても静かだった。
「君のチクリ、ちょっとかゆかったけど」
男の子は、少し笑った。
「ぼく、嫌だって言えるようになったよ」
風が吹いた。
ひまわりはもう終わりに近かった。
でも、その根元には、次の季節へつながる種が落ちていた。
男の子は、こまるを見た。
「こまる先生」
こまるは、今日は丸くならなかった。
「丸くなることも、チクリって言うことも、どっちも自分を守ることなんだね」
こまるは、一歩進んだ。

男の子は続けた。
「ぼく、これからも怖くなったら丸くなると思う。でも、嫌なことを嫌って言う日もあると思う」
そして、空を見上げた。
「どっちも、ぼくが生きるためなんだね」
夏が終わった。
蚊の羽音は聞こえなくなった。
ひまわりは種を残し、庭は秋の匂いに変わっていった。
こまるは、相変わらず怖がりだった。
大きな音がすれば丸くなる。
鳥の影が通れば丸くなる。
男の子が急に走ってくれば丸くなる。
でも、少し変わったことがあった。
丸くなる前に、一度だけ周りを見るようになった。
逃げるのか。
丸くなるのか。
近づくのか。
声を出すのか。
そばにいるのか。
守り方は、ひとつではない。
それを、嫌われ者の蚊が教えてくれた。
ある日、男の子は学校から帰ってくると、庭にノートを持ってきた。
宿題だった。
「好きな生き物について書きましょう」
男の子は、最初にダンゴムシの絵を描いた。
丸くなった小さな体。
その横に、こう書いた。
ダンゴムシは、怖いときに丸くなります。
それは弱いからではなく、自分を守るためです。
丸くなっても、また開けます。
次に、男の子は少し迷ってから、蚊の絵を描いた。
細い足。
小さな羽。
ぷうん、という音。
そして、こう書いた。
蚊は、みんなに嫌われます。
ぼくも刺されるとかゆいので嫌です。
でも、蚊にも生きる理由があります。
嫌われるものにも、理由があるかもしれません。

人も同じです。
丸くなって自分を守る日もあります。
チクリと言って自分を守る日もあります。
どちらも、悪いことではありません。
男の子は鉛筆を止めた。
しばらく考えて、最後に一文を書き足した。
ぼくは、誰かの理由をすぐに決めつけない人になりたいです。
それを読んだ先生は、赤い丸をつけた。
でも男の子にとって、その赤い丸よりも大事なものがあった。
それは、庭の土の中にいる小さな先生たちのことを、自分の言葉で書けたことだった。
夜、こまるはひまわりの枯れた茎の下で空を見上げた。
もう、すいの羽音は聞こえない。
でも、風が草を揺らすたびに、こまるは思い出す。
嫌われても、飛んでいた小さな命。
自分の理由を誰かに聞いてほしかった命。
最後の羽音が、ありがとうに聞こえた夜。
こまるは、そっと丸くなった。
悲しかったからではない。
怖かったからでもない。
ただ、大切なものを胸の中で守りたかったから。
丸くなる理由は、ひとつではない。
怖いから丸くなる日もある。
休むために丸くなる日もある。
大切な記憶を抱きしめるために丸くなる日もある。
そしていつか、また開く。
開いたら、少し歩く。
その一歩の先に、誰かの理由を聞ける夜があるかもしれないから。
雨上がりの庭には、世界の秘密が落ちている。
丸くなる命。
飛び続ける命。
咲く命。
枯れて、種を残す命。
誰かから見れば、弱く見える。
誰かから見れば、迷惑に見える。
誰かから見れば、意味がないように見える。
でも、それぞれに理由がある。
丸くなる理由。
飛ぶ理由。
刺す理由。
逃げる理由。
そばにいる理由。
また歩き出す理由。
そして、小さな命たちは今日も、誰にも気づかれない場所で、誰かの心にそっと言葉を残している。
大丈夫。
あなたがあなたを守る理由を、すぐに誰かが分かってくれなくてもいい。
それでも、その理由は、ちゃんとここにある。
あなたが丸くなる夜にも。
あなたがチクリと声を出す朝にも。
あなたがまた少し開いて歩き出す、その小さな一歩の中にも。
第一弾 私が丸くなる理由
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第二弾 羽音が聞こえる夜~私が丸くなる理由~
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