急に興味がわいて哲学書を読み漁る日がしばらく続いていました。
どうも、キャリカク津利用者 Y(仮名)です。
唐突ですが、「哲学とは?」と聞かれてすぐに答えられる人はそうそう居ないのではないのでしょうか。
それこそ大学で専攻していたり、趣味で哲学書を読み漁る、いわゆる本の虫だったり…そういう人でなければ「哲学は〇〇だ」なんて即答できないんじゃないかと私は思います。
かくいう私も即答できないうちの一人です。
冒頭で「哲学書を読み漁っている」なんて言いましたが、知っていますか?
哲学書って(ものによりますが)とっても分厚くて読み解くのに時間がかかるんです。
漫画を流し見るように「へぇ、そうなんだ」とすぐに理解できるものではないのです。
…おっと、話が逸れてしまいましたね。
兎にも角にも、私は「哲学」の本髄を知らぬまま、哲学に向き合おうとしているわけです。
私自身、無謀なことをしていると思っています。ええ、本当に。
小学生の頃なんかは、10分間の読書の時間にハリーポッターの分厚い原作を少しずつ読んだりしていた自称本の虫な私ですが、何故 今更「哲学」なのか。
漫画の影響です。はい。何かを始めるきっかけはなんて、簡単なものです。
そんな私がまず最初に手に取った哲学書は、有名な哲学者のニーチェやエーリッヒ・フロムなどの著書ではなく、モーリス・メルロ=ポンティの「知覚の現象学」でした。
そもそも『知覚の現象学』とは何ぞや?ということで、掻い摘んで説明しますね。
この先は長くなるので、興味のある方は読んでいただけると嬉しいです。
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知覚の現象学とは『この世界を”頭(理性)”ではなく”身体”で感じてそれらに対して意味づけているのではないか、と主張する哲学』のことです。
これだけ言われてもすぐにはピンときませんよね。
それを理解するにあたってまず、メルロ=ポンティの”思想”を知ると分かりやすいかもしれません。
メルロ=ポンティの思想は大まかに分けて「身体論」と「両義性」というものが存在します。
まず、「身体論」から掘り下げていこうと思います。
「身体論」とは、従来 西洋哲学で軽視されてきた「人間の身体」そのものの重要性を見直す考え方のことを言います。
西洋哲学では人間の精神と身体は別物であり、身体はそこら辺にある木々のようにただの物質に過ぎない、と考えられてきました。
哲学者たちはそれを元に「主体」である人間の精神によって「客体(主観や主体とは別の独立したもの)」であるこの世界を明らかにしようと試みてきました。
これが従来の西洋哲学です。
しかしそこにメルロ=ポンティは『人間の身体が他の物質とは異なり、完全な客体になることはない』と主張したのです。
たとえば、目の前のテーブルにリンゴがひとつ置かれている状況を想像してみてください。
その状況になるためにはまず、リンゴを見るために自分の「足」を動かしてテーブルの近くに移動し、自分の「首」を動かす必要があるのです。
つまり「リンゴを知覚する(感覚器官を通じて、外界の事物を見分け、とらえる働きのこと)」には、「目」や「足」や「首」などの身体が主体的な役目を果たす必要があるのです。
こうしてメルロ=ポンティは、身体は精神に従うだけの客体ではなく、主体的な部分も持ち合わせているのだと考えたのです。
元々 精神が優位であった西洋哲学の考え方を見直し、身体が主役となって世界を理解していこうという新たな考え方を主張したのが、モーリス・メルロ=ポンティその人なのです。
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次に「両義性」について掘り下げていこうと思います。
「両義性」とは、物事の意味が常に多面的(多くの側面を持っていること)であり、ひとつの明確な意味には収束しないことを言います。
要するに、物事には常に複数の解釈が成り立つということです。
はい。ここで出てくるのがメルロ=ポンティです。
メルロ=ポンティは、人間の知覚が両義的であると主張しました。
たとえば、地面に落ちている石ころに触れると、触覚によりその石ころの質感や温度を知覚することができますね。
ですが、これは完全に客観的な情報とはいえないのです。
それは何故なのか?
私たちの体温が高い時と低い時では石ころの温度の感じ方は異なりますよね。
この石ころの情報は、私たちの身体の状態によって変化するということになります。
メルロ=ポンティによると、人間の知覚は両義的であり、「身体が外部へ関わりにいく」という能動的な側面と「身体が外部から情報を受け取る」という受動的な側面があります。
つまりひとつではないということですね。
メルロ=ポンティは「両義性は人間の根本的な特徴であるため、個々の身体という主観的な情報を無視して、完全に客観的な世界を明らかにすることはできない」と主張したのです。
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ここでメルロ=ポンティの『知覚の現象学』という著書の話に戻りましょう。
知覚の現象学についての言い方を変えると、『この世界を私たちは「頭(脳)で認識する」のではなく、「身体で体験・行動する」ことで知覚が生まれる』と説く哲学書のことです。
上記で掘り下げたメルロ=ポンティの思想を知ることで「知覚の現象学とは何なのか」ということを読み解きやすくなったのではないでしょうか?
この世界に手で触れ、足で歩き、身体全体で環境と相互作用することで感じられる、これが身体性という世界を知る手段である。
知覚は何かを感じることとセットになっていて、それが伴うからこそ可能になる。
そして世界は受け身で認識するものではなく、私たち自身の身体的な視点(観点)から生成される。
これこそがメルロ=ポンティの主張する知覚の現象学の要点となります。
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これだけ長々と書いておいてなんですが、素人解釈なので完全には理解できていないので違う点もあるかと思います。なので、ふーん…なるほど…?程度に思っていただけると私としてはとても助かります。
私たちは生きている限り 何かに触れ、考え、食べ、動くことは最低限必須の行動となっています。
知覚の現象学、しいては ある意味、哲学とは『生きていること』なのかも知れません。
私の生きる源は「哲学書を読むこと」です。
しかし、時間が経ったり気が逸れたときは別のことが源になっていることもあります。
人間は曖昧な存在なので、気分が落ちたりもしますし、急にハイテンションになったりもします。
そういう変化があるからこそ哲学も進化しますし、世界自体も進化していくのだと私は思っています。
結局、何が言いたいかというと…きっかけは何でもいいので興味を持てることがあったら何でも挑戦してみてほしい。ただそれだけです。
こうして私の長い文章を読んでくださった方の心が1ミリでも揺さぶられているといいなぁ、なんて思いながら今日はここまでにしておきます。
人生は短くあっという間です。
その中でもたくさん楽しいと思えることを見つけられることを、私は願っています。
P.S. 哲学を学ぶ場合は、プラトンという人物の哲学書から入ると理解しやすくておすすめです!!!
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